物思いにふける秋の夜長!
さて、
「徳ツムツム」
ツムツムという大ヒットゲームに肖る
謎のポエム集を発行しました私です。
検索しても出てこないので、注文をお待ちしております ^-^



今日のは、ポエムかつ
アカデミックでつまらない内容なので、

無理なく読まずに回れ右ー!スポーツ新聞でも読んで!




芸能界の方々の訃報が続いてます。

不思議な一面がありますが、
色々と考え事をしてしまった。

生きていると、
嬉しいことが起こったり、
やりがいのあることに出会ったり、
何にも起こらなかったりします。

これらの中で、多分一番きついのは、

何も起こらないこと

なのかなーという気がしました、というお話です。

何も起こらないことで、
人は絶望してしまうのかもしれません。

それをどこまでも肯定しない内容の記事です。


魂には「強度」というべきものがあり、
強度の含意は、
  • 丈夫であること
  • 逃げ足の速さ
  • 瞬発力
とか、いろんなことが考えられるものです。
それら全てを含み、
お酒のオリのように、誰にも知られずに、
静かに、静かに、底に沈殿していったもの。
通常、それを持つ人には意識さえされない、
どこまでも不気味で形をつかめない、一見異形に見えるもの。


それが魂の強度と呼んで良いものだと思います。

さて。

本来であれば、
人は、

友達がいなかろうが、
親がいなかろうが、 
恋人がいなかろうが、
属する社会がなかろうが、

それでも楽しいことを見つけて生きていかねばならないです。
私はそう考えています。
人生とはそれだけハードボイルドなものだと思うのです。

でも、それはなかなか難しいことです。

ましてそれらが一気に襲うものであればかなり厳しい状況になることが予想できます。

ですが、こういったことは多分、
魂の強度で緩和されたり、時にはなかったことにさえできるのだと私は思います。


かつて、セーレン・キルケゴールは言いました。
私はあまり肌に合わない哲学者でした。

死に至る病とは、絶望のことである

今でも裏若き乙女ですが、
かつてもっと凄まじく裏若き乙女であった私は、

「え、本当?」

と思っていました…

私が単にバカだっただけかもしれないですが、
どうにもこれが真実だとは私には思えなかった。
肌に合わない感覚だなと思ったんです。

いや、もしかしてそれは本当だったのかもしれない。
そういう意味では、彼は間違っていないかもしれない。

だけど、

絶望しない

という選択肢について、彼は述べなかった。
きっと、何かの教徒だった彼は、その選択肢に考えも及ばなかったかもしれません。

これこそが、私の持った違和感だったのだ

となんとなく今では思います。
今でも疑問の余地もない裏若き乙女です。

めんどくさい話にここから少しだけなりますが、

絶望しない生き方こそが、




こういうことなんじゃないかと思うのです。

ポストモダンは絶望や空虚の彼岸に生まれたものです(と私は思ってます)。
チョットスカした人達が、
「もっと軽やかに生きれないの?うすのろなの?」
と考え出した、やや軽薄な思想かもしれません。

でもここには、

向き合いつつ/向き合わない
戦いつつ/逃げる
笑顔を見せながら/縁を切る

という、対立を促し両方に金を貸す、
悪魔のやり方"ユダヤの両建て"を超える、
キラキラした思想があります。

そういう対比では、
キルケゴールの思想は、

盛大に決闘して負ける

というものに私には見えてしまうのです。

地下茎をたっぷりと、
縦に伸びれないなら横に伸びれば良いじゃない!
横に伸びたらせっかくだから、
もう一回別のとこから顔を出しちゃえば良いじゃない!

という、マリー・アントワネットもびっくりするくらいの、
柔軟さ、しなやかさ、
フットワークの軽さ、多面蛸足のような異形、そして強さ。

この場所で退屈なら、こっちも見るけどあっちもよく見てみよう。

こういう存在様式が、
絶望から生き物を遠ざけ、
まだ見ぬ、来るかどうかしれぬ躍動に心を躍らせ、
愚直に明日を楽しいものだと信じる、
そういう生き様を体現できるのではないかと思った夜長でした。

退屈な記事、読んで頂きありがとうございました。

応援クリックよろしくお願いいたしますっ!

人気ブログランキング